7日目

善福寺公園の亀 で、寝過ごした。8時半に起きてげんなりするも、自営業の底力を見せてやろうと思って走りに出る。つい先日昼間は暑いから絶対走るのをやめよう、と思ったばかりだが日差しをできるだけ避けつつ走った。善福寺公園では9時から貸しボートの営業が始まる。ボートに乗ってみた。
 なんとかリズムを取り戻さねば。結局帰ってきたら正午だった。

初 サボり

 日曜日は7日目のはずだったが、初めてさぼってしまった。土曜日に仕事を終えた後、下崎と航と三木ティと焼肉後飲みだった。航が一人暮らしを始めるにあたっての祝い酒。
 朝起きたんだけどビールが残っていて断念しました。
 でまあ昨日はダラダラやってたので昼にガネーシャ・ガルでカレーを食べて(アド街ック天国のせいで行列ができていた)、夜は中華を食べる。明日こそはと決意して寝る。

さくら町会盆踊り大会その2

P1000409_s.JPG 明かりをせいいっぱいつけた周囲の数少ない商店が、桜の木々の間に明々と灯された提灯と相俟って、この狭い路地を照らし出していた。
 もう雨だから帰りますよと親に促された子供が「じゃあもう少ししたら雨やむかもしれないから、また見に来ようよ。もう少ししたら、ね?」と僕の横を通り過ぎていった。
 結局僕は2曲の間だけそこにいて、雨がほんとに強くなってきたので退散した。ズンドコ節の次は何が流れてたのかはよくわからない。

 僕はこの近くでも物件を探してみようかなという気になっている。

さくら町会盆踊り大会その1

P1000410_s.JPG 6時半~7時頃ピークを迎えると計算してその頃行けるように、仕事を処理して自転車に空気を入れてスタンバっていたのに、向かう途中で雨が降ってきた。
 もしや中止かと危惧しながら会場にかけつけると、トトロの曲が聞こえてきた。僕が子供の頃はアラレ音頭が全盛でしたが、ここ最近はトトロを聴くことが多いな。これ音頭でもなんでもない気がするんですがいいんでしょうか。まあアラレ音頭でもご先祖様は複雑な心境であろう。
 路地を曲がって提灯が見える。やっぱりこの路地の提灯は夜空に映えるよ、と思って数枚シャッターを切ると「雨が降ってきたので子供の部を終了します」というアナウンスが。続いて氷川きよしの「ズンドコ節」が始まった。根強いなきよし。おばさんが数人道路の真ん中に寄ってきて、踊り始めた。雨に負ける気はさらさらないらしい。会場のボルテージは次第に熱気を帯び、もはや沸騰寸前に!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ジュースを配られた子供達の叫び声が、さくら町会野外特設ステージの夜空へこだまする。
でも雨足はどんどん強くなってきて、デジカメはしまわざるを得ない状況になってきてしまった。うーん、残念だ。

精霊流し

P1000369_s.JPG 昨日、文子と「悲しさ」について少し話した。いつの頃からかもうわからなくなっているが、確実なのは母親を亡くす以前から、僕は喜怒哀楽の感情のうち「悲しさ」という感情を別格扱いし、僕なりに大切に扱ってきた。
 家で飼っていた動物が死んだり、生活の上で悲しいことがあったりしたときに、人とその悲しさを共有するという選択肢があることは知ってはいたはずだが、僕はその選択肢を取ることがあまりなかったように思う。ひとつは人とその感情を共有するのが難しいと思っていたこともあり、ひとつは「悲しみ」という感情に利己的な臭いを感じていたからでもある。
 飼っていた動物が死に、それが悲しかったときに、僕はたいてい1人になった。1人になる場所はそのときどきだったが、その動物を埋めに行った場所であったり、自室であったり、家の近くの人気のない緑地公園であったりした。自分がこんなに悲しいのは死んでしまった動物を悼んでの気持ちよりも、動物がいなくなってしまった事実が自分にとって悲しいからだ、ということに、随分小さな頃から悩んでいた気がする。それで僕は人が悲しむのを見るのも嫌だったし、人に悲しんでいる姿を見せるのも嫌いだった。
 母親も父親もそうであった気がする。過剰に生き物と関わろうとする性格により、母は動物のために涙を流すことの多いひとであったが、病気の仔猫を胸に抱いて介抱しているとき、巣から地面に落ちていた小雀を猫が痛めつけてしまったとき、母の悲しみには微かだが強い怒りが伴っており、僕はそこに立ち入ることを避けた。父は悲しさを表に出すことが滅多にないが、代わりに少し怒ったように見えることがある。表に出すにしても無口になり、それについて話すことはあまりない。あまりないっていうか全くない。母が死んだとき少し話したが、二言三言である。僕は悲しさと対峙する際の沈黙を覚えた。僕の悲しさとのつきあいかたの素地はこのように形作られたものであると思う。
 大人になった今でもあまり変わっていないが、多少は説明や言い訳を加えるようになり、幼い時に感じていた後ろめたさは消えた。人と他者との関係を関係性そのもので捉えるようになり、存在に必要以上の重きを置かなくなったことが転機であったと思う。
 しかし今でも他者に悲しさを慮られたりすると、モゾモゾとした違和感を感じてしまうことはよくある。ほとんど自分と相手の関係性における対話として悲しさを捉えてきたので、そこへ違うベクトルが加わるとどう扱っていいかよくわからないのである。だから僕は弔辞が嫌いだ。葬式というものは参列者と送られる死者とが現世での相互関係に終止符を打つ場所であって、遺族にしても同じだと僕は思っている。参列者が遺族に向けていう「モゴモゴ」という言葉にならない弔辞は言葉にならなくてよいのであり、あれは挨拶以上の意味を持ってしまってはいけないというのが僕の正直な気持ちだ。
 そういう意味で、盆踊りというイベントは決して悪くない。自分と、逝ってしまった誰かの間につかの間のコネクションを確立するための踊りは潔い。そこにはそれぞれ一本ずつの絆しかないから。

今日はジョギングは休肝日

P1000371_s.JPG 三日走って一日休む、と決めたということもあり、今日は休んだ。寝たのが午前4時というのもあったんだけど、5時半にいつものように携帯電話のアラームで目が覚めて、ひとしきり走ろうか走るまいか逡巡したのが以前の僕と同じ人間とは思えぬ。何が起こったのだ。
 結局おととい寝不足で走ってやばかったからやめたほうがいいという結論に達しもう一度寝たのだが、8時頃に目が覚めてしまい、僕は自転車で善福寺公園へ行ってみることにした。今日はデジカメを持って。

 いつもの道を自転車で走ると、かなり暑い。6時台の涼しさに慣れているのでびっくりした。この時間帯にジョギングするのは自殺行為に近いから絶対にやめようと思った。

 さて、さくら町についてみると、まず困ったことが起こった。今日明日だと思っていた盆踊りの日程が、金土、つまり昨日今日だったのだ。なんとなく危惧していたもののやっぱりか。参った。初日の熱気は見ることができなくなってしまった。

 写真はつい先ほどのさくら町。正確にはここあたりは善福寺2丁目というところで、さくら町会というのはこの路地の周辺を言う古い名称なんだろうと思う。少し分かりづらいが、この写真手前ではなく奥にある十字路が中心らしく、十字路いっぱいに二重に円が描いてあった。さては昨晩はお楽しみでしたね?言わなくても分かっていますよ。
 実際ここに住んだり、表面のレトロなたたずまいのカバーを剥がせるくらいに通い詰めてみれば、ここはなんということのない路地なのかもしれない。でも、この盆踊りにかける意気込みがいいよね。
 普通道路でやらないよなあ?

六日目 晴れ

P1000327_s.JPG 今日は天気も良く、かなり寝坊して6時半に出たので気温は上がっていたが風が涼しかった。昨日とはうってかわった調子の良さで、気圧は1014hPa。でも詳細な観測データを見つけて昨日の観測データを調べてみたら昨日も東京の気圧はそんなに低くなかったっていうか今日より高かったので気圧のせいじゃなかったことが判明してしまった。単に寝不足が祟ったらしい。(昨日は2時間睡眠でぱっちり目が覚め意気揚々と走りに出た)ま、人間の感覚なんていいかげんなものですね。

 走りながら音楽を聴くためにmp3プレイヤーを買おうかと思ったんだけど、iPODを初めとしたHDDプレイヤーは振動が加わる激しい運動には向かない気がするし、携帯さえ邪魔なのにHDDだなんて重すぎます。必然的にRAMメモリ型のmp3プレイヤーを探すことになるんだけど、汗をかくとイヤホンが気持ち悪そうなので結局やめました。そもそも音楽なんか無くても走ることへのモチべーションが保てているし、いろいろ外から音は聞こえてくるんですよ。車が近づいてくる音だったり、わんこがハアハア言ってる息の音だったり、蝉の鳴き声であったり、水の音であったり。だからいいや。目をつけたプレイヤーは、なんだかすげえ安いけれど。

 実はこのエントリーは書くのが2回目なので意気減退して短くなっています。このAptivaのキーボードにはカーソルキーの両肩にブラウザを制御するためのnext、prevキーがついてるんですが、これが変換時に誤って押されると書いている途中でもブラウザがBACKしてしまうという恐ろしい事態が起こるわけです。このキー取っちゃおうかな。

 さて、話は変わりますがランニング時にみつけた「さくら町」という小さな町があるんですが、ここが土日に盆踊りをやるようで、提灯が下がっています。それがとてもこじんまりとした、かわいらしいさくらの並木道を中心とした町内で、僕は一目で気に入ってしまいました。もし時間があったらカメラを持って行ってみたいと思います。あの桜並木の見えるところに住めたら楽しいだろうなあ。

 写真はイラン人のアリさんがやってた油そば「矢作ラーメン」が食べられた名店「龍みちのく」跡地。突然いなくなってしまったため西荻住民は途方に暮れています。岩手で店を始めたとか始めないとか…。

5日目 曇り

P1000036_s.JPG 今日はついに筋肉痛から解放された。昨日もほとんどなかったのだけど、右ふくらはぎにちょっとした痛みが残っていたのだった。今日は全く痛みもなく、踵から踝にかけてかかっている負担は意識されるものの至って快適、のはずだった。
 しかしどこか違う。燃料やエンジン的にも問題ない気がするし、筐体もこのようにしっかりしているのに、どうにも走りづらいのだ。中央線を越えたあたりは疑問に思いつつ「駄目な体だなあ」程度に思っていたのだが、公園に着いてみるとどうやら原因が分かり始めてきた。うまく酸素が体に回らないのである。理由はよくわからないが、曇っていたために植物が光合成をさぼってやがるのか、あるいは低気圧のため僕のこの綿飴のような体が敏感にその変化を感じ取っているのか。
 天候の違いによる光合成-酸素生成がどのくらい違うのかというのはよくわからないが、こちらに出ている図3を見ると、日中と夜間で結構な量のCO2の交換量の差があることがわかる。また季節ごとの変化も顕著でおもしろい。こいつはCO2の吸収量の変化で、植物の成分であるセルロース(炭水化物)の生成に関する化学式は
セルロース (C6H10O5) + (O2)6 = (CO2)6 + (H2O)5 + 4kcal/g
なのでまあ吸った分だけ吐くような感じだけど、大気中の成分は酸素が20%程度に二酸化炭素が330ppm(0.033%)と超少ない。とすると善福寺公園の木々が光合成を多少サボったところで、僕の呼吸器に影響を与えることはちょっと考えにくい。この線はあまりない感じだ。
 とすると次に考えられるのは気圧が低くなっているということで、雲も多いし、気圧の谷かなあと考えながら帰ってきたのだが、気象庁のホームページを見たら気圧の谷どころか台風が来ていたらしい
 1000ヘクトパスカルというのはむちゃくちゃ低いというわけでもない。現にこの台風は熱帯低気圧になったり台風になったりのぎりぎりのやつだ。1hPaが高度9m分に相当するらしいので、近隣の高気圧1018hPaと較べると高度にして160mくらいの差だ。なんだ大したこと無いな。そのくらいでへこたれる体か。結局駄目な体だなあ。
 高地で練習をされるマラソンランナーとかもう本気で尊敬します。すごいね。

ロード・オブ・ザ・リング

tolkien-jrr_s.jpg ちょっと前の話だが”王の帰還“をレンタルで見た。結局僕は指輪物語の熱烈な支持者でありながら、映画館には足を運ばなかったことになる。
 風景の第1作目、スペクタクルとアクションの第2作目に較べ、原作のテイストを最もよく再現しているのは第三作かもしれない。3時間23分という長作でありながら、冒頭から一気に終結へと突き進む「王の帰還」のスピード感がよく出ていた。前2作で違和感を感じた部分が既に消化されていて諦めがついていたというのもあるけれど、これはこれでいいのかもしれないとさえ思ってしまった。でもロードオブザリング映画版を見てから原作に触れる人は不幸だ。長さの問題もあるし、ファンタジーの映画化でいつも問題になる再現度の問題も依然としてある。原作を完全に映像で再現するのは今後も難しいだろう。
 指輪物語の他メディアへの進出にはいつもケチがついてまわっていた。アニメ化もゲーム化も第2巻が出ることさえ希で、「旅の仲間」までで頓挫するのが通常だった。それが今回の三作の映画化と、それを機に一気にEAが三作ゲーム化できたということは記念に値するだろう。しかしEAのゲーム化はいつもの版権ビジネスエンジンに載せただけのことであり、結局のところ「映画のゲーム化」でしかない。過去にInterplayが出していたような原作の忠実なゲーム化とはほど遠い。ま、どうでもいいか。
 映画の話に戻ると、もともと原作から「王の帰還」は前2巻で周到に用意された伏線が一気にカタルシスへ向け収斂していく章であるので、このハリウッド作品としても映画作品としても中途半端な作りの映画が多少感動を与えることができたとしても不思議ではない。
 でも僕が見たこの映画の1シーン1シーンは原作の同じシーンをはっきりと想起させてくれたので、その点では成功しているというか僕が見事にやられてしまった。馳夫に恋をするエオウィンが失恋をし、死ぬために戦場へと馬を駆ける、その心情が十分演技や演出やスクリプトで示されたとは言えないし、ファラミアとの出会いも適当にされてしまってはいたが、原作を知っている人にとってはエオウィンの物語はその重みを持って理解されるし、ピピンがナズグルの首領に突き刺した剣は、「ホビット庄の一の太刀!」と彼が叫ばなかったとしても、あの塚山でホビットたちが塚人に囚われたときに一緒に埋葬された剣のひとつで、はるか古代にナズグルを倒すことを目的に北方のヌメノール人が鍛えた業物であったのだ。そしてホビットたちがここに生きていられるのも、あの大地の人トム・ボンバディル(映画には未登場)がいたからこそであるのだなあと嘆息するのだ。
 要するに原作が提供していた細やかな因果応報の数々がかなり省略されてしまっているので、原作のすべてをこの映画から読みとるのは不可能である。しかし原作の一部分を忠実に再現してはいる。そういう原作のダイジェスト版としては非常に優れているし、僕が3度目か4度目に通読したときに初めて理解したミナス=ティリスの構造も一目瞭然である。その再現度には喝采をあげた。でも、映画からこの物語に入った人が本当に僕と同じ感動を得られるかというと無理だろう。アラゴルンがなぜゴンドールの王になるのか、映画だけ見ていて理解できる(覚えている)かどうかさえ怪しい。ただ長いだけのよくわからん映画になってしまってるんじゃないかなあ、と思いましたとさ。

とまあそんな話です。
その他難点は、
・半人半エルフのエルロンドの役の人がマトリックスのエージェントスミスの人で、どうしてもそのイメージが強くて原作のエルロンドのイメージが壊れまくった。今にも目から光線出して爆発しそうなんだもの。
・ホビットやドワーフを小さく見せるために合成を使っているのはよくわかったが、合成の技術がちょっとお粗末すぎやしないか。被写界深度の適合とかしてないんじゃ…。カメラワークも制限されているし、CGキャラ(ゴラム=ゴクリ)やCG背景との合成のほうがしっくりいっているというのはどういうこと。