引っ越しのこと

小野と吉祥寺を歩いていて見つけたヨッシー どうやら物件は確保できたようで、ひと安心。今はリフォーム中なので来月頭あたりから入れると思う。電話回線を引いたりネット引いたりしないと本格的に移住できないので、いろいろとやることが多いなあ。ネットは光を引いてしまおうかどうか迷っています。こういうのはテンションが高いうちに一気にやらないとダレるので、今月末~来月頭に終わらせる所存。引っ越し自体は航や父に頼もうか、あるいは引っ越し屋の単身引っ越しサービスを受けるかで迷っています。ちと家具がでかいので親の足腰を壊すとよくないし、航も忙しいし彼に借りを作ると引っ越し屋に払う金額より後々高くつきそうだ。
PC関連のでかい荷物と紙メディアが大量にあるのが重くて嫌だ。デスクトップPC三台(Mac含)というのは1人で持って回るにはフットワークが悪すぎる…。

精霊流し

P1000369_s.JPG 昨日、文子と「悲しさ」について少し話した。いつの頃からかもうわからなくなっているが、確実なのは母親を亡くす以前から、僕は喜怒哀楽の感情のうち「悲しさ」という感情を別格扱いし、僕なりに大切に扱ってきた。
 家で飼っていた動物が死んだり、生活の上で悲しいことがあったりしたときに、人とその悲しさを共有するという選択肢があることは知ってはいたはずだが、僕はその選択肢を取ることがあまりなかったように思う。ひとつは人とその感情を共有するのが難しいと思っていたこともあり、ひとつは「悲しみ」という感情に利己的な臭いを感じていたからでもある。
 飼っていた動物が死に、それが悲しかったときに、僕はたいてい1人になった。1人になる場所はそのときどきだったが、その動物を埋めに行った場所であったり、自室であったり、家の近くの人気のない緑地公園であったりした。自分がこんなに悲しいのは死んでしまった動物を悼んでの気持ちよりも、動物がいなくなってしまった事実が自分にとって悲しいからだ、ということに、随分小さな頃から悩んでいた気がする。それで僕は人が悲しむのを見るのも嫌だったし、人に悲しんでいる姿を見せるのも嫌いだった。
 母親も父親もそうであった気がする。過剰に生き物と関わろうとする性格により、母は動物のために涙を流すことの多いひとであったが、病気の仔猫を胸に抱いて介抱しているとき、巣から地面に落ちていた小雀を猫が痛めつけてしまったとき、母の悲しみには微かだが強い怒りが伴っており、僕はそこに立ち入ることを避けた。父は悲しさを表に出すことが滅多にないが、代わりに少し怒ったように見えることがある。表に出すにしても無口になり、それについて話すことはあまりない。あまりないっていうか全くない。母が死んだとき少し話したが、二言三言である。僕は悲しさと対峙する際の沈黙を覚えた。僕の悲しさとのつきあいかたの素地はこのように形作られたものであると思う。
 大人になった今でもあまり変わっていないが、多少は説明や言い訳を加えるようになり、幼い時に感じていた後ろめたさは消えた。人と他者との関係を関係性そのもので捉えるようになり、存在に必要以上の重きを置かなくなったことが転機であったと思う。
 しかし今でも他者に悲しさを慮られたりすると、モゾモゾとした違和感を感じてしまうことはよくある。ほとんど自分と相手の関係性における対話として悲しさを捉えてきたので、そこへ違うベクトルが加わるとどう扱っていいかよくわからないのである。だから僕は弔辞が嫌いだ。葬式というものは参列者と送られる死者とが現世での相互関係に終止符を打つ場所であって、遺族にしても同じだと僕は思っている。参列者が遺族に向けていう「モゴモゴ」という言葉にならない弔辞は言葉にならなくてよいのであり、あれは挨拶以上の意味を持ってしまってはいけないというのが僕の正直な気持ちだ。
 そういう意味で、盆踊りというイベントは決して悪くない。自分と、逝ってしまった誰かの間につかの間のコネクションを確立するための踊りは潔い。そこにはそれぞれ一本ずつの絆しかないから。

ロード・オブ・ザ・リング

tolkien-jrr_s.jpg ちょっと前の話だが”王の帰還“をレンタルで見た。結局僕は指輪物語の熱烈な支持者でありながら、映画館には足を運ばなかったことになる。
 風景の第1作目、スペクタクルとアクションの第2作目に較べ、原作のテイストを最もよく再現しているのは第三作かもしれない。3時間23分という長作でありながら、冒頭から一気に終結へと突き進む「王の帰還」のスピード感がよく出ていた。前2作で違和感を感じた部分が既に消化されていて諦めがついていたというのもあるけれど、これはこれでいいのかもしれないとさえ思ってしまった。でもロードオブザリング映画版を見てから原作に触れる人は不幸だ。長さの問題もあるし、ファンタジーの映画化でいつも問題になる再現度の問題も依然としてある。原作を完全に映像で再現するのは今後も難しいだろう。
 指輪物語の他メディアへの進出にはいつもケチがついてまわっていた。アニメ化もゲーム化も第2巻が出ることさえ希で、「旅の仲間」までで頓挫するのが通常だった。それが今回の三作の映画化と、それを機に一気にEAが三作ゲーム化できたということは記念に値するだろう。しかしEAのゲーム化はいつもの版権ビジネスエンジンに載せただけのことであり、結局のところ「映画のゲーム化」でしかない。過去にInterplayが出していたような原作の忠実なゲーム化とはほど遠い。ま、どうでもいいか。
 映画の話に戻ると、もともと原作から「王の帰還」は前2巻で周到に用意された伏線が一気にカタルシスへ向け収斂していく章であるので、このハリウッド作品としても映画作品としても中途半端な作りの映画が多少感動を与えることができたとしても不思議ではない。
 でも僕が見たこの映画の1シーン1シーンは原作の同じシーンをはっきりと想起させてくれたので、その点では成功しているというか僕が見事にやられてしまった。馳夫に恋をするエオウィンが失恋をし、死ぬために戦場へと馬を駆ける、その心情が十分演技や演出やスクリプトで示されたとは言えないし、ファラミアとの出会いも適当にされてしまってはいたが、原作を知っている人にとってはエオウィンの物語はその重みを持って理解されるし、ピピンがナズグルの首領に突き刺した剣は、「ホビット庄の一の太刀!」と彼が叫ばなかったとしても、あの塚山でホビットたちが塚人に囚われたときに一緒に埋葬された剣のひとつで、はるか古代にナズグルを倒すことを目的に北方のヌメノール人が鍛えた業物であったのだ。そしてホビットたちがここに生きていられるのも、あの大地の人トム・ボンバディル(映画には未登場)がいたからこそであるのだなあと嘆息するのだ。
 要するに原作が提供していた細やかな因果応報の数々がかなり省略されてしまっているので、原作のすべてをこの映画から読みとるのは不可能である。しかし原作の一部分を忠実に再現してはいる。そういう原作のダイジェスト版としては非常に優れているし、僕が3度目か4度目に通読したときに初めて理解したミナス=ティリスの構造も一目瞭然である。その再現度には喝采をあげた。でも、映画からこの物語に入った人が本当に僕と同じ感動を得られるかというと無理だろう。アラゴルンがなぜゴンドールの王になるのか、映画だけ見ていて理解できる(覚えている)かどうかさえ怪しい。ただ長いだけのよくわからん映画になってしまってるんじゃないかなあ、と思いましたとさ。

とまあそんな話です。
その他難点は、
・半人半エルフのエルロンドの役の人がマトリックスのエージェントスミスの人で、どうしてもそのイメージが強くて原作のエルロンドのイメージが壊れまくった。今にも目から光線出して爆発しそうなんだもの。
・ホビットやドワーフを小さく見せるために合成を使っているのはよくわかったが、合成の技術がちょっとお粗末すぎやしないか。被写界深度の適合とかしてないんじゃ…。カメラワークも制限されているし、CGキャラ(ゴラム=ゴクリ)やCG背景との合成のほうがしっくりいっているというのはどういうこと。

お引っ越し

 昼二時頃突然航から電話が掛かってきて、「寮に入れるようになった」とのことだった。来年と予定していたが意外に早い。むしろいきなりすぎ。現在の家賃が12万、このあたりでこの2DK55平米/二人の快適性を1人で維持するにはどうしても8万~というオーダー。やっと杉並区になじんできたのに、、、。
 西荻で1Kに閉じこもるか、はてさて西多摩の方で探すか…とちょっと探してみたら、6万円台で2LDKの生活ができそうである。こんなに電車に乗らない生活が維持できるなら、おいしい食事を食べるところは少なくなるだろうが田舎暮らしを始めるのも悪くないか…。龍みちのくラーメンに追従し岩手へ行くことも考えたがADSLさえおぼつかない場所へ行くのはチャレンジ過ぎる。と言って田舎暮らしの先輩のさおがあれだけ海生活を満喫しているのを見せられているだけに1ルームのみじめさには耐えられそうもない…。
 湯船を頻繁に利用するわけでもなく、シャワーが使えればいいのでUBでも問題はないんだが、閉所恐怖症とまでは行かないまでも閉所嫌悪症程度のものがあるのでワンルームは心がさびしくなってしまいそうだ。悩む。
 そんなこんなで朝早かったこともあり一時間ほど仮眠をとったら、Mが夢に出てきた。彼の家は地主でオヤジさんはリタイヤして悠々自適の大家暮らし、と聞いている。地元では僕の知っているアパートもいくつか彼の家のものなのだ。多少の下心があり電話してみると、繋がった。一年半ぶり? ほうほう、N○Tに行ったとは聞いていたがへーなんだYRP野比なんだ。相変わらずの彼のいささかの遠慮(迷惑なのかも)を感じたが、厚かましく再会をなんとなく約束して電話を切った。
 夏だなぁ。

 写真はだんだん野村佐知代に似てきた藤原紀香さん(34)。