「愛」なんてクソ食らえなんだよ

長い。注意。

友人のmixi日記を読んでいたら「外国人に『I love you』を日本語に訳したらどうなる?と言われた」という話題が出ていました。
そっちにコメントつけるべきかもしれませんが、いつも腹立たしく思っていることを書き散らかしてしまいそうなので、おとなしく自分の方にひきとります。

愛とは何なのか
「愛」「love」という概念自体がかなりキリスト教的なもので、なおかつ話者がどういう意味で使っているのか分からないので、僕はあまり好きな言葉ではありません。キリスト教圏の人にしても神の愛と私的な愛情をごっちゃにしているし、それどころか恋との区別すらついていないのではと思われます。こっちが「愛って何だと思ってるの?」って聞いてみたいくらいです。

新約聖書で言われる神の愛は現代の愛よりも、イスラム圏の家父長制のもとに強く継承され理解される家族愛に近いものです。ゴッドファーザー的な家族愛は旧約聖書の神の愛に限りなく近く、さらにそれを「対象:家族」から「対象:信者」というリミットまで発散させるとキリストの愛になります。

日本における愛
日本で愛というとやはり直江兼続さんですが、彼のカブトに書かれた愛の字は愛染明王の愛だとか。愛染明王の語源の場合の愛は愛欲のほうにより近いと思われますので、現代的な愛とはすこし合致しません。「火サス的愛」と言えなくもないか。そう、バブル期あたりまで「愛」には「愛欲」の側面が強く残っていたのです。「愛人」と言えば恋人のことではありませんし今でもそうですが、熟語状態であるとシニフィエが収束して固着度が高くなるので、本来使われていた意味を推測しやすいことがあります(注:「愛嬌」など用法の例外ももちろんあります)。このことだけを根拠にするわけではありませんが、最近まで日本においては「愛」=「愛欲」=「セックス」の意味が非常に強かったと言えます。「愛し合ってるかーい」と忌野清志郎 が言うとき、それは多分にセクシャルな意味を含んでいました。

英語におけるlove
とはいえ、確か僕が中学校で英語を習い始めた頃は、「lover」は「愛人」という意味合いが強いので恋人という意味では使うなと言われたものです。「make love」とは言いますが「God makes love」ではギリシャ神話になってしまいます。
これはセックスの開放とも無関係ではない気がしますが、とにかく英語圏ですらloveの概念は時代によって急激に変化します。それほど定義がはっきりしない言葉なのです。

現代の「love」ができるまで
ここに推測を試みてみましょう。

まず「愛」があった。これは「愛欲」を内包しています。我々性欲のある生き物の本能ですので、存在に織り込まれている原罪のようなものです。(ただし本当は罪ではなく、福音ですが。)

ここに家父長的な唯一神が誕生します。まだ神に愛という言葉は使われていません。旧約聖書で愛と言えばアダムとイブのいんぐりもんぐりです。しかし、エホバは彼の民族を偏愛し、たまに数百年規模の放置プレイで無茶苦茶に凋落させたりもしますが、とにかく守り続けた、とされています。ここまではおそらく世界中でほとんどの民族が同じ意味で「愛」「love」という言葉を使えたことでしょう。それは愛欲:セックスとセットになっていて、家族愛やジャイアンツ愛とは違うものでした。

次に新約聖書が誕生します。「神は信者を愛しているから、信ずる者は救われる(信者以外は最後に殺す)」と説きました。また「神」=「愛」とされました。ここに、「愛」の定義の強奪が起こります。「愛」とは「愛欲」を内包するものであったのに、エホバやキリストが超堅物でセックスをしない超童貞であったがために、「愛」から「愛欲」がひっぺがされ、うち捨てられてしまいます。おそらく10世紀ごろ、十字軍のあたりまでに醸成されてきた構造でしょう。
「神の愛」は実体を持ちません。「愛」とは本来「性欲」という我々の物理的身体を出自とする力を元に発生するものなのですが、ここから物理的身体という根拠そのものを排除して残ったものが「神の愛」だと言うのです。そして我々が愛だと思っていたものは愛に余分なものが寄生しているので、余分なものは捨てて崇高な「神の愛」を持たなくてはいけない、としました。これは重力からその根拠である質量を排除するようなものです。たこ焼きからタコを取るようなものなので、本当は別の名前で呼ばなくてはいけなかったのですが、使いやすい言葉だったので利用されてしまいました。しかしながら、言葉の上で排除はするものの人間は性欲を捨てませんし否定しすぎると子供も生まれないし信者も獲得できないので、公然の秘密のような形でナアナアになっていったというのが実情です。無視しようにもできないものをタブー視するというのは不幸ではありますが、この状態はそこそこ長く続きました。
アメリカ合衆国がキリスト教の国としてできしばらく経つまではこのままです。

愛を取り巻く状況に転機を与えたのはおそらく、ベトナム戦争です。反戦運動としての「サマー・オブ・ラブ」やレノンとオノ・ヨーコの「ベッド・イン」といった運動や気運が、不当に虐げられていた愛欲の地位を上げる効果も果たしました。1960年の後半から1970年代にかけての出来事で、日本にloveという概念が輸入され「愛」という言葉の意味が上書きされたのもこの頃に始まっています。
単純に愛欲、セックスの地位を上げるという手法も採れたと思いますが、かつてキリスト教が「愛」という言葉を便利に使ったのと逆に、キリスト教の説く「愛」(=「神の愛」)と、かつて使われていた「愛欲を伴う人間の愛」との境目が明確に区切られていなかったのをいいことに、「神の愛」も「愛欲」もいっしょくたに「愛」としてしまい、それを当然の権利として主張することで反戦運動は大義名分・旗印としました。

運動自体は大きな成果を上げることなく収束しましたが、人々の心に新しい「愛」の概念が定着していきました。セックスは徐々に開放され、タブー視されていたものがだんだんとおおっぴらに語られるようになってきました。女性のみならず同性愛やその他のセクシャルマイノリティの人々も、近年では(たいていの場所で)タブー視されることは少なくなってきました。このこと自体はすばらしいことで、それに「いっしょくたの愛」が一役買ったことは否めません。つまるところ、「思うところを卑下しない」という考え方は、自分とは違う他者の考えも否定しないのです。しかし「いっしょくたの愛」には実は問題がありました。
「愛欲を伴う人間の愛」と「神の愛」を「いっしょくた」にしてしまったため、「愛欲を伴う人間の愛」が「神の愛」に等しい万能の力を持ってしまったのです。

しかしそれは、間違っています。愛欲は確かに不当に虐げられた歴史を持っています。
神の愛は神の属性です(そうだというのだから、そうなのでしょう)。
しかし愛欲に全てを帳消しにする万能があるかというと、そんなわけはありません。
「どんなに迷っても 泣いても 愛があれば大丈夫」か。それは嘘です。
愛情がある両親から生まれた子供は必ず幸せか。必ずしもそうではありません。
愛がない結婚はありえないか。そんなことはありません。
愛があるからレイプして良いということにはなりませんし、愛があるから他国を侵略して良いということにもなりません。

極端なことを言えば、ある為政者が戦争で60万人以上の犠牲者を出しているにも係わらず、その為政者が家族や犬と仲良くしている報道を見て「愛情のある人だからこの戦争は間違っていない」と視聴者が思ってしまう誤解を生む土壌が、現在の愛を取り巻く状況にはあります。

しかしながら、現在「I love you」を日本語訳せよと言われたら、「愛している」以外にはないでしょう。loveが混沌としているのですから、そのままそれを輸入した愛が混沌としているのは当然で、わけのわからないまま使うのが正しい用法です。

自分がどう言うか、というとまた難しいものがあります。僕も「愛している」という言葉を使うことがありますが、このときの気持ちは本当は「君を家族だと思っている」とか「君を一番に大切に思っている」というほうが正確です。もっと言えば勝手に分類整理されてしまう「家族」とは別の分類領域があって(そこにはもちろん家族も入っていますが)、そこに相手がいる、という意味なのですが、うまい言葉はありません。


再:愛とは何か
愛から愛欲は切り離せないと書きましたが、一方で「慈愛」があります。仏教で言えば「慈悲の心」です。これは新約聖書が説くところの「神の愛」に、概念としてはとても近いものです。(「神の愛」は信者限定なので、本音を言えば「慈悲の心」は「神の愛」以上のものです。ただし、「神の愛」はなんでもできますが慈悲の心は天地創造はできません)
しかし残念なことに、キリスト教の考え方では人間はいくらがんばっても神になれません。イエス・キリストは神の一つの形態であって人間ではありません。ここ2000年はわりと丸くなったものの、そもそも人間が神の所行に近づこうとするとすぐ怒って街を滅ぼしたり言語を分裂させたりちょっと疑うと奈落の底に突き落としたりと、わりと乱暴な神なのです。真似することすらおこがましい、そういった存在がキリスト教の神です。神父牧師として超がんばると聖者聖人程度の扱いはしてくれますが、彼らもまた神でもなく、天使ですらありません。それでいて「神とは愛である」と言います。つまり、「神の愛」を人間が持つことはできないのは当たり前で、やはり「神の愛」と「人間の愛」は違って当然なのです。

仏教では死ねば皆ホトケですから、仏も人間も同じ存在の違う相です。生きながらにして悟りを開くこともまた可能。慈悲の心、慈愛の心というのは、悟りを開けばそれはもう全方位に向けて照射しっぱなしになってしまうのでしょうけど、そうではない巷間の我々であってもそういった心を持つことは可能だし、たまに短時間そういう気分であったりもするわけです。このような観点の導入から、「人間の愛」は「愛欲」と「慈愛」の2パターンが存在すると言えます。

「慈愛」は根本的に神性ではなくヒューマニティの領域にあります。これは人間性の発露ですから、神の愛ではありません。

では、神の愛とは何か?
それは1C前後にはローマの圧政に耐える民衆を一つにする方便として機能し、10C頃にはイスラム諸国を侵略する方便として機能し、20Cには愛欲の復権のための方便として利用されました。言ってみればそれは便宜上の概念であって、場所を違えば「正義」と呼ばれることもあるものです。アルファにしてオメガ、正味の話、根拠のない決まり事のようなものです。それを「愛」と呼んだところにキリスト教のすばらしい発明がありました。

私見ながら、頼んでもいない愛を燦々と降り注いでおきながら、それに感謝しろとは何事だ、と僕は思います。最後の審判だってお願いしたわけでもないのに、勝手にジャッジして人間を仕分けするなんて、横暴にもほどがあります。そうしてそういう罰を食らわないように信心しろ、という寸法です。そんなものが愛であるはずがありますか。愛欲以下の脅迫ではないですか。暴力的な世界で、社会的に虐げられていた人々の溜飲を下げる効果はあったでしょう。しかし、それはまやかしです。布教にセロ紛いの奇跡を必要としたことがその証左です。ナポレオンズの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

実際のところ、「愛」は大した力も持っていないし、弱々しいものです。「愛」や「love」に何か特別なパワーがあると感じるのは、ただの錯覚か洗脳の結果です。
それでも神が介入する前の「愛」は、純粋で、美しい。誰かをいとしいと思う気持ち。悲しみのなかに灯る慈愛の心。
「愛」は人間の持ちもののうち、最も純粋で最も原始的、かつ最も美しいものであったので、神に横取りされ、汚されたのでしょう。

そんな神(=愛)に、どんな言葉をかけるべきでしょうか。腹を切って死ぬべきである、とかかな。

“「愛」なんてクソ食らえなんだよ” への3件の返信

  1. 「愛」より少し低いレベルで発揮される愛としてモノに対する「愛着」というものがあります。ご存じの通り僕はなぜかこの愛着回路があまり育ってません。

    そんな「愛着という感情が薄い人」である僕を「愛着という感情が強い人」が見た時の印象は、おそらく「神の愛を信じていない人」を「神の愛を信じている人」が見た時の印象と似たようなものになると思います。

    神であれ、ものに対するこだわりであれ、何かを信じること、その信じていることを自分の行動を決める起点にすることが、程度の差はあっても「拡張された愛」を生み出してしまうきっかけになるのかしら? とこの文章を読んでいて考えさせられました。

  2. 確かに普通の人から見て君は「何かが不足している」ように映る。言い得て妙だな。僕は神の不合理を説きながら愛という不合理に身を投じているわけね。でも僕は自分の方が余分な物を背負い込んでいるのは知っている。

    愛が利己的であってよいのかという問いは青年を悩ます格好のネタであるわけですが、利己的なんだよね。「(対象を)失いたくない」と思うのが愛。愛欲ベースですから、相手が人間だろうが物だろうがそれは当然。

    慈愛(慈悲)は基本的に利己的ではない。英語だとcharityだってさ。キリスト教徒の十八番ではないか、と思ったが、ヤハヴェにはチャリティー精神があるんだろうか?
    「こちとら遊びでやってんじゃネェんだよ!」…という神の声が聞こえたような気がした。

  3. 神の愛について少し思ったことを補足
    上記の整理を経て、神の愛は慈悲ではなく「神が信者という集団に対して降り注ぐ、信者(対象)を失いたくないと思う気持ち」だということに(このエントリでは)なった。
    これって僕の思うキリスト教の神のアティテュードにかなり合致するんだが、どうだろう?

    迷える子羊はこう言われる。「神は見ておられる」「あなたを愛で包んでいる」
    これは神が子羊を必要としておられる、子羊を愛してくれている、ということなんだけど、愛(愛欲)は報酬を求めるので、子羊もまた神を愛さなくてはならない。
    天から我々に向かってでっかい矢印が降り注ぎ、我々から天に向かっても矢印が向かっているというスクリーンショット:これを相思相愛という。このコネクションは愛情の成立に非常に重要な役割を果たす。相互作用の無い愛は(慈愛ではないので)いつしか折れて消えてしまうからだ。
    自分が孤独である・根無し草であると感じている人は、この構造に安堵を見いだすだろう。キリスト教のみならず、仏教も含めて神仏の現世へのアクセスはこの構造を摂ることが多い。

    そして、神=愛であるなら、神は子羊の愛なしでは存在しえないという解が帰納法的に導出される。つまり、子羊が神を愛さなくなれば神を殺すことができる。しかし残念ながら仏はこちらが愛さなくても知らぬが仏、というアティテュードで全く意に介さない。強い。