グレッグ・イーガン『万物理論』(原題:DISTRESS)

ディアスポラは幾何数学ネタだったがこれは物理ネタ。ただし物理部分はそれほど記述が多くなく、ディアスポラのヤチマ内向シーンのように文章にしにくいものでもないのでスラっと読める。ディアスポラ(1997)より古い(1995)。

グレッグ・イーガンは人種・老い・寿命・生物学的性別・ジェンダー・政治・宗教・国家といった肉体の枷と社会の枷全てを疑えと臆面もなく言う作家だ。それらはたまたま今までは捨てるのが難しかった障害か、もしくは限定的な環境下で採用されざるを得なかった妥協の産物で、誰もが検証可能な形で世界を読み解く科学的な理解こそが世界を作ると強く信じている。だがそれが現代に生きる我々には(手に届くところにないとは言わないが)困難なこともよく分かっていて、だからこそSFの世界に身を置いているのだろう。現実にそれらの枷は我々の行動を限定するが、それは我々が枷の中にあるからであって我々の可能性の限界であるからではない。枷が枷でなくなれば精神には広大な可能性の地平が広がっていて、枷を所与のものと有り難がるのは退廃であるとイーガンは思っている。イーガンがSFという手法を摂るのはそういった枷を取り払った世界を描くのが容易であるからで、彼の作品は本質的には真実を見据えるための啓蒙書だ。彼にとっては科学は信仰対象ではなく「信頼のおける素敵なツール」といったところだろう。ああもう、大好きだこの作家。
J・P・ホーガンも最初はこれくらいすっきりとした物言いをする作家だったのだが、最近は残念なことに下手なアクション作家になってしまった。

本作では今まで短編で一つずつ対処していたそういった古い概念との対決を一作で行おうという意欲作で、さらにそれを統一理論と絡めるというアクロバットをやってのけるのだが、個人的にはたいへん胸のすく快作ではあるものの、この作家がストレスをぶちまけるのをやめて作家として一皮剥けるのはやはりディアスポラではないだろうかと思う。ディアスポラのラストシーンそして作品としての美しさは群を抜いている。

ネタバレを含む追記があるので次のページに書きます

カテゴリーbook

“グレッグ・イーガン『万物理論』(原題:DISTRESS)” への4件の返信

  1. そんなに勧められるととってしまうとねえ 読まなきゃね ちょっとこちらも忙しいんだけど これもコミュニケーションで

  2. とりあえず貸してるディアスポラをがんばってください
    一部苦行のような幾何学の章があるけど、そこは忍の一字で。

  3. >ストレスをぶちまけるのをやめて
    のところが何とも気に掛かってしょうがありません。
    ディアスポラは確かにそういう匂いは感じなかった。
    ホーガンは今となっては哀れでなりません。

  4. いま「黎明の星」読んでるけど、また例によって「根拠無く理想を実現している正義の社会」が出てくるし、しょうもない…
    イーガンも理想の社会モデルをよく描くが、そこに至る根拠と検証を提示するかどうかというのはこうも違う結果を招くものか。
    今になってみれば、ホーガン「星を継ぐもの」の、政治家のいない科学者集団が政治的決定をしていくあの違和感をまだ引きずっているのだと感じます。

    > ストレスについて
    「万物理論」は言ってみれば気にくわない連中を全員正座させて端から涙目にさせて蹴り倒していくような、そんな小説です。