グレッグ・イーガン『万物理論』(原題:DISTRESS)

<友人とイーガンについて話して思ったこと>
以下は追記。昔本書を読んだというN田と話していて思ったこと。なおネタバレの度合いが高い。注意。

難解であるという批判
SF読みにファンが多いイーガンであるが、ネット上の書評などを見ると「SF好きに薦められて読んだけど全く理解の外。良さが分からない」というものが多い。本読みを自負する人ですらそれなので、この批判は甘んじて受けるべきだろう。ただ本書「万物理論」は読みやすい部類なので、イーガン入門にはよいかも。

「万物理論」がリアルでない
「万物理論」の原題は「DISTRESS」。悲劇だとか苦難だとか遭難だとか、そんな意味だ。作中では疫病の名前として登場する。なぜ邦題がこれになったのかはわからないが、本書の最大の欠点は「万物理論」がオマケであるという点だ。作品のモチベーションはイーガンの言うところの「無知カルト」に対する徹底的な批判にあり、それがあらかた解決してしまうと大テーマの万物理論(=Theory Of Everything、TOE)が残るのみになるのだが、TOEはどうしようもなくSFでリアルさの欠片もないのだ。TOEを支える解釈にも「精神とは何ぞや」という大きな穴があり、それはついに顧みられずに終わる。理論的ですらない。しかしこういった部分は邦題が「ディストレス」あるいは「苦難」といった題であったら軽減していたかもしれない。イーガンの興味は明らかにディストレス(疫病ではない、人類が対面している苦難)にあり、TOEはそれを解消するツールとして登場したに過ぎない。

「ディアスポラ」との差違
「ディストレス」という作品は、人類が抱える疫病である「無知の病」を乗り越えなくてはいけない、という確固たる信念が作品の全てである。作品の最後に位置するTOEの完成は後日談程度の重要度しか持っていない。
対して「ディアスポラ」は、突然高次元の幾何数学を文章で視覚的に解説する章が始まるという(読み手にとっての)悲劇はあれど、作品全体は「寿命や性別や時間から解き放たれたとき、我々はなぜ生きるのか」という問いに対して感動的なまでに美しい答えをラストに用意し、それに突き進む。僕が「ディアスポラ」をより評価するのはそのためだ。「ディストレス」がアクロバティックなのは無知カルトに対してのイーガンの戦いとTOEというSFネタが綱渡り的に結びつけられている点で、イーガンはかろうじてそれをやってのけているものの作品全体の強度は下がってしまっている。

愛について
「ディストレス」は愛の問題にも若干切り込む。人間が何の検証もせずに受け入れている「愛」という概念に欺瞞があることを提示するのだが、脳外科手術で相当部位を排除すればオッケーという解決策はあまりスマートではない。もちろん描写として使用前使用後がわかりやすいという利点はあるだろうが・・・。イーガンは愛情についての短編も多くものしているが、いまいち「これ!」というものがない。
このテーマについてはロバート・J・ソウヤー「スタープレックス」が、さっぱりとではあるがよく描いている。報酬回路が悪いのではなく、必要なのはそういった動物的な自分を認識する正しい理解だ。

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“グレッグ・イーガン『万物理論』(原題:DISTRESS)” への4件の返信

  1. そんなに勧められるととってしまうとねえ 読まなきゃね ちょっとこちらも忙しいんだけど これもコミュニケーションで

  2. とりあえず貸してるディアスポラをがんばってください
    一部苦行のような幾何学の章があるけど、そこは忍の一字で。

  3. >ストレスをぶちまけるのをやめて
    のところが何とも気に掛かってしょうがありません。
    ディアスポラは確かにそういう匂いは感じなかった。
    ホーガンは今となっては哀れでなりません。

  4. いま「黎明の星」読んでるけど、また例によって「根拠無く理想を実現している正義の社会」が出てくるし、しょうもない…
    イーガンも理想の社会モデルをよく描くが、そこに至る根拠と検証を提示するかどうかというのはこうも違う結果を招くものか。
    今になってみれば、ホーガン「星を継ぐもの」の、政治家のいない科学者集団が政治的決定をしていくあの違和感をまだ引きずっているのだと感じます。

    > ストレスについて
    「万物理論」は言ってみれば気にくわない連中を全員正座させて端から涙目にさせて蹴り倒していくような、そんな小説です。